氷点下祭りだって、自分に「平気である」と暗示をかければどうという事はない。最高が0を切ってて最低は-7ぐらいっした!時間遅くなっちゃったのでジョギングはせんかった!

年末にスケッチしたやつで樹冠形レポを超いい加減に書いた。だって今更過ぎるよ内容が。こんなん2年の前期で書けるよ。まぁ他学部出身の人の1コマ講義の課題だからしゃーないけど。逆に筆が進まなさ過ぎて半ページに1時間掛かる始末wwwww

今日の昼休みにクラスメートが言った事にたいしてちょっとした反駁したくなったので綴ってみる。
「科学って、如何にその時代の人にばれない嘘を吐くか、だよね」って言った。
嘘だって!?その時代の誰も証明する事が出来ずに、後になってひっくり返された説の事を『嘘』と言っていた。

彼女は天動説と地動説の話を例に挙げてた。後になって地動説にひっくり返された天動説は、『嘘』だったと。
でもこの天動説地動説は宗教が思いっきり絡んでいて、『正しい』筈の地動説に圧力かけてたから例えとしてよくない。そういう事の無い例えに変えよう。


●犬は色盲とされていたけど、そんな事は無い。『犬は色盲』は嘘である。
ニュートリノに質量は無いと言われていたけど、実はあった。よって『ニュートリノに質量は無い』は嘘である。

こういうのはどうだろう。引っ繰り返ったものは嘘なのか。嘘じゃなくて 仮説 じゃないのか?
いや、言葉の綾に踊らされているような気もしてしまうけど。

でも、証明してくれるのを待っていたり、或いは「違うよ」と覆されるのを歓迎する、それって『嘘』の性質なんだろうか?
『嘘』は暴かれず逃げ果せることを望む性質のものじゃないのか?


広辞苑では嘘は「正しくないこと」と書かれていて、それは「引っ繰り返った仮説」と結果的に同じだろう。でもその先に「いつわり」が付いていて、その「いつわり」の中には「だまし」の意図があるそうな。
一方、仮説は「(略)…現象を統一的に説明しうるように設けた仮定」そして真理を導くためのものとなっている。

仮説は、結果的に間違っていても、何物かを騙すつもりでに立てたものではないはず。別れ道の一本の、その先には何も無かったよ、と言ってくれる。どちらかというとそんな、遠回りなナビの性質を持っているのが『違った仮説』。嘘はナビしてくれない。


さぁ、どう思う?どなたか、なにか。あんまり突き進むとガチ哲学になりそうだから程々に思考にブレーキを掛けるけどね。でも仮説の嘘呼ばわりははっきり言って嫌だ嫌いだ。


因みにシーケンサーの説明はまじで昼休み挟んで10〜17時だった。でも午後はメンテナンスの話だったんで、うちらは午前の2時間だけでおkだった助かった。でも2限は出れずにノート借りることに^^^^^^^^^